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院長 仲田洋美 プロフィール

院長 仲田 洋美

経歴

  • 1995年高知医科大学医学部医学科卒業
  • 1995年高知医科大学医学部第三内科学教室(血液・呼吸器・感染症内科学教室)入局
  • 2005年高知医科大学第二外科学教室
    (心臓血管外科・消化器外科・呼吸器外科・乳腺外科)入局
  • 2005年高知医科大学第二外科学教室助教
  • 2011年兵庫医科大学医学部付属病院臨床遺伝
  • 2014年12月新宿ミネルバクリニック開院
  • 2018年3月移転のため、新宿ミネルバクリニック閉院
  • 2018年3月ミネルバクリニック開院

所属学会

専門医・認定医・その他

  • 日本内科学会認定内科専門医
  • 日本臨床腫瘍学会認定がん薬物療法専門医
  • 臨床遺伝専門医制度委員会認定臨床遺伝専門医
  • 麻酔科標榜医
  • ICD制度協議会認定インフェクションコントロールドクター
  • 日本化学療法学会認定抗菌化学療法認定医

活動報告

2013年8月 日本臨床腫瘍学会学術集会において会長シンポジウムの講師を務める。
同年、日経BP社より出版された「がん診療 UP TO DATE」の分担執筆者を務める
2014年5月 日経メディカルオンラインに、執筆者リレーエッセイを寄稿。

プロフィール

プロフィール

多感な10代を青い目で金髪のカトリック司祭とすごし、当時は自由に往来できなかったハンセン氏病施設の慰問などに同行。病気のため指がなかったりする人々といきなり握手したため、感動して涙を流された経験を持つ。司祭さまに聞いたら、「こんな若いお嬢さんに触ってもらったことなんてないからびっくりして泣いちゃったんだよ」と言われた。多感な時期を白人のカトリック司祭と禅問答して育つという非常に稀有な環境にあった。
10代で単身ベルギーの片田舎の女子高に留学。カトリック司祭の実家である妹宅にホームステイをする。日本とはまったく違う文化に触れ、多様性を尊重する個人主義(個人の意思を尊重する)の考え方を身に着けて帰国。
1988年、高知医科大学医学部医学科入学。夏休みなどは、乳児院などでボランティアをして過ごす。在学中に結婚。初めての出産で双生児の一人を36週6日で突然失い、初めて母になった日はもう一人の子供を失った一番つらい日になった。つらくて泣いていたら、産婦人科医に「どうして泣いているんだ」と怒られてしまった。だれもがどう慰めていいのかわからなかったのか、避けられてしまった。「誰もわたしのケアをしてくれない」と深く傷ついた。そのとき、医者の一言で患者は深く傷つくということを実体験した。それ以来、「本物のケアを提供できる医師になりたい」という思いが原動力となっている。

1995年に医師免許を取得して大学病院の血液・呼吸器・感染症内科に入局。そこで医師としての仕事をしていく中で、臓器別・疾患別の縦割り医療に疑問を感じるようになりました。患者様ごとに違う訴えを伺って理解してお悩みを解決できる「全人的な診療」ができる医師になりたいという想いが強くなり、臓器を網羅した横断的専門医の道へ進みます。そして2010年に2019年時点でも全国で1200人程度のみである、がん薬物療法専門医を取得します。臓器について網羅することで遺伝性がんへの対策が必要であることに気が付き、2011年には臨床遺伝専門医を取得します。こちらは2019年時点、全国で1000人ほどしかいません。

プロフィール

遺伝相談はセンシティブな分野であり、本当は相談したいと思っている患者様がたくさんいらっしゃいます。しかし、大学病院は昼間の短い時間しか対応しておらず、そのあり方に強く疑問を感じました。「必要とする人が、もっと気軽に診療を受けられるようにしたい」という想いが強くなり、2014年12月にミネルバクリニックを開業しました。開業後はよろづお悩み相談所として、大学病院でも難しいような内容をはじめ、全国各地から多くの患者様からの相談を受け、”家族(計画)の問題”を改善に導いています。

患者様一人ひとりの事情を伺い、心に寄り添ってた個別対応をモットーとし、時間を取って本当のお悩みや解決したいことを知ることを大切にしています。長い人生においては短い時間かもしれません。しかし、患者様と出会えたその瞬間を大切にし、患者様の人生に何か大きな意味をもたらせられるように、信頼関係の構築を心がけた診療を行っています。

プロフィール

女医が少なかった時代に3人の子の母でありながら難関専門医を3つ取得し社会進出した経験から、医療の面だけではなく女性のライフスタイルをトータルで支援したいと強く願っています。少しだけ人生の先輩として、患者様の心に届くような言葉をお伝えさせていただいており、「会うと元気になる」「お話しできて良かった」というありがたい感謝の声をたくさん頂いております。

著書・取材・出演歴

著書に”女性のがんの本当の話”(ワニブックス)、”遺伝するがん・しないがん”(法研)がある。がん薬物療法専門医や臨床遺伝専門医という日本でも数少ない専門家として、包み隠さず核心を突く発言をできることから週刊誌等(週刊現代、週刊ポスト、週刊新潮等)の取材も多く受ける。医療系の特集でのコメントを寄せることも多数。
専門家としてテレビ出演歴も豊富で、市川海老蔵さんが小林麻央さんの病状を語る記者会見を行った日に、フジテレビに生出演・解説を行う。その他、TBSやAbemaTVなど出演多数。

ご挨拶

ご挨拶

みなさま初めまして。本日は当院のホームページにお越しくださりありがとうございます。

ミネルバクリニック院長・仲田洋美は、日本内科学会内科専門医、日本臨床腫瘍学会がん薬物療法専門医(がん薬物療法専門医認定者名簿)、日本人類遺伝学会臨床遺伝専門医(臨床遺伝専門医名簿:東京都)として従事し、患者様の心に寄り添った診療を心がけています。

医師人生のスタート

医師人生のスタート

平成7年に高知医科大学医学部医学科を卒業、国家試験に合格しました。医師人生としてのスタートは母校の大学病院の血液・呼吸内科医です。

その後は腫瘍性疾患の化学療法位としての経験を活かしたいと思い、臓器横断型腫瘍内科医に転向します。私もそこで初めて知ったのですが、臓器を限定しないで診療すると「遺伝性腫瘍」に遭遇する機会がとても多くありました。しかし、遺伝性腫瘍について知識・経験のある専門家はほとんどおらず、「これではいけない」と思い、遺伝専門医になることを決意したのです。

NGS時代の幕開けと恩師の言葉

NGS時代の幕開けと恩師の言葉

2009年の秋、私は大腸がんのK-ras遺伝子変異の検出方法の実習のため、国立がん研究センター東病院に行っていました。当時、東大の大学院に次世代シークエンサーNGSが2台導入され、「日本のNGS時代」が幕を開けた瞬間でした。

そこで指導を担当してくれていた恩師・土原先生が私にこうおっしゃいました。
「そのうち細胞1個から全ゲノムが読める時代が来る。急速に技術が進歩し、時代が流れている。それなのに、その技術革新を臨床に戻せる人材、つまり患者に説明できる医師は一人もいない。これは大変由々しき問題だ。君は遺伝専門医になれ」と。

難関専門医への挑戦と苦悩

難関専門医への挑戦と苦悩

確かに土原先生がおっしゃることは間違いない、当時の私もそう思いました。ですが、そのころの私といえば、がん薬物療法専門医の資格を取るために受験勉強の真っ最中です。がん薬物療法専門医はがん分野の幅広い知識と経験を要求され、合格率は驚くほど低く超難関専門医の代名詞でした。今でも全くがん薬物療法専門医はほとんど増えていません。

当時の私は2010年の受検に向け、がんの分子生物学の本を読破するところから始めて高い壁を乗り越えるのに必死にもがいていました。勉強と仕事で睡眠時間はすでに1日2~3時間で眼にくまを作っています。それなのに、まさか「君は遺伝専門医になれ」と言われるとは……青天の霹靂とはまさにこのことかもしれません。新たな高いハードルに囲まれて四面楚歌状態ともいえるかもしれません。

難関専門医への挑戦と苦悩

私は決して特別な人間ではありません。それはもう学生時代はもちろん医師人生をスタートして駆け回っていたあのころからずっと感じています。ですが、「患者に説明できる医師は一人もいない。これは大変由々しき問題だ」というお言葉は深く心に突き刺さります。

誰かがやらなければいけない、でも誰もやらない、ならば私がやらなければならない。
最終的に私は重い腰を上げ、遺伝専門医としての道も目指すこととなったのです。

新型出生前診断を扱うきっかけ

新型出生前診断を扱うきっかけ

決意してからすぐに、BRCA1/2遺伝子変異による遺伝性乳卵巣がん着床前診断の対象となっている国がすでに4カ国あることに気が付きます。「いずれがんの世界で着床前診断が行われる時代が来る」そう直感し震えました。

そして2010年春、遺伝学会に入り遺伝専門医の研修届を出しました。遺伝分野の門外漢であった私の推薦人は学会が紹介してくれた兵庫医科大学で当時教授をされていた玉置先生です。兵庫医大といえば日本で最も古い遺伝診療部のある病院です。その信頼からか、幅広い遺伝の問題を抱えた患者様もたくさんいらっしゃいました。そして研修を通して、出生前診断も経験することとなったのです。この経験がミネルバクリニック開業後に新型出生前診断を扱うようになったきっかけでもあります。

新型出生前診断を扱うきっかけ

検査結果を踏まえてカップルやご夫婦がどのような選択をしてどのように生きていくか。これはとても重要なことです。選択には正解や不正解はありません。ですが、選択肢がなく流されたままでいることはとても不幸なことだと思います。だからこそ、患者様ご自身がきちんと理解して自己決定できるだけの環境をお作りし、そして「最善の選択」をしていただけるように支援することが、私たち専門医の役目です。
様々な貴重な経験を経て自分なりに考えを固めていき、ついに2014年12月、私は内科専門医・がん薬物療法専門医・臨床遺伝専門医として新宿にミネルバクリニックを開業します。

ミネルバクリニックのコンセプトと私の想い

「世界基準の遺伝診療を日常に」
「先進医療を当たり前に受けられる」
「地域にこそ専門医」

ミネルバクリニックのコンセプトと私の想い

ミネルバクリニックのコンセプトはこの3つです。
現状、遺伝専門医は大学病院にしかおらず、横断型専門医はほぼいません。そのため、幅広い遺伝の問題を抱える患者様のお悩みはなかなか解決されることはありません。当院はそうした現状を打破したい、多くの方が遺伝診療によって救われる未来を作りたいという想いがあります。
また、先進医療はいずれ時代の流れとともに必ず一般医療になります。しかし今お悩みの患者様をお助けするには、先進医療をいますぐに当たり前に受けられる環境作りが必要です。

そして専門医は一極集中するのではなく地域でにこそ必要であり、広く門戸を開いて最前線に立って診療すべきである、というのが私の考えです。

ミネルバクリニックのコンセプトと私の想い

ミネルバクリニックはみなさまが落ち着いてリラックスして診療をお受けいただけるように、喧騒激しい新宿歌舞伎町から北青山にミネルバクリニックは移転しました。私はミネルバクリニックをこれまでにない医療機関へと成長させたいと考えています。そしてこれまでにない医療機関が、どこでも当たり前にある未来を築きたいと願っています。今後ともご指導ご鞭撻のほど、何卒よろしくお願い申し上げます。

医師としての原点

医師としての原点

この写真は、私が高知医科大学医学部医学科6年生のころ、臨床実習中に友人が撮影した「ヒポクラテスの木」とのツーショット写真です。

この木の本来の名前は「プラタナス」ですがなぜ医学の祖であるヒポクラテスの名で呼ばれるのでしょうか。実はコス市には実際に樹齢3000年ともいわれる大きなプラタナスの木があるのですが、ヒポクラテスがその木の下で、今でいうところの医学セミナーを開いていたという逸話が残っています。そのことから、プラタナスは医学のシンボルとみなしてヒポクラテスの木と呼ぶようになったのだそうです。そして現在、プラタナスの若木は世界中に植樹されています。

医師としての原点

大学を卒業してからもう20年が経過しますが、当時指導してくれた先生たちの気持ちをやっと理解できるようになってきました。医師になって様々な壁にぶつかり、数え切れないほど挫折を繰り返し、それでも歯を食いしばって「まだ頑張れる」と自分を信じてやってきた20年。大学時代は無邪気にプラタナスの木に聴診器をあてていた私たちを、先生たちがまるでプラタナスの木のように温かく見守り育んでくれたからこそ、今の私があります。

がむしゃらに駆け抜けてきましたが気が付けば内科専門医・がん薬物療法専門医・臨床遺伝専門医という専門医資格を持つ国内唯一の医師となっていました。周りからは「ハイヒールでエベレストに登ろうとしている」などと表現されることもありましたが、登ってみればその先に見えたのは遺伝性腫瘍の診療体制の現実、足元に見えたのはスッと一本ひかれた白いラインでした。そう、ここはまだゴールではなくスタートラインでしかありません。私はがんと遺伝の専門医として、遺伝性腫瘍の診療体制の整備に微力ながら尽力していかなければなりません。

医師としての原点

「誰かがやらなければいけない、でも誰もやらない、ならば私がやらなければならない」
困難だからこそ取り組み、声を上げ続けることが大切です。そして実際に言い続けていたら、第三次がん対策基本計画に遺伝性腫瘍に対する取り組みを入れてもらえました。
頑張ろうと素直にそう思えるのは、支援してくださるたくさんの方々がいらっしゃるからです。本当に感謝してもし尽くせません。どうか今後とも、このお転婆でお節介、そして天然な専門医をどうかプラタナスの木のように温かく見守ってください。

ミネルバクリニックという名前はローマ神話の医術と戦術の女神ミネルバから取りました。医師、仲田洋美も女神ミネルバに少しでも近づければ、この名を冠するに値する医師になれる日を目指し、情熱を燃やして邁進していきます。

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